今回はフリーアナウンサーの山川建夫(やまかわ ゆきお)さんについてみていきましょう。
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山川建夫アナウンサーの子供は娘で女優の仲代奈緒だった!
山川建夫さんといえば、1968年にアナウンサーとしてフジテレビに入社し、17年間務めて退社したあとは、は憲法改正に反対する主張や、環境保護や自然と親しむ暮らしについての講演などを行っています。
そんな山川建夫さんは結婚していてお子さんがいらっしゃいます。
最初の奥さんは宮崎聡子さんという元フジテレビ同僚アナウンサーです。
2人の間には娘が1人誕生しており、現在女優として活躍している仲代奈緒さんです。
宮崎聡子さんとは1978年に離婚し、山川建夫さんがフジテレビ退職後に満喫した放浪と田舎暮らしは、再婚した奥さんと娘と共に行っています。
再婚した奥さんとの間に誕生した娘さんは、山川咲さんというウェディングプランナーです。
娘・仲代奈緒は仲代達矢の養女だったの?
1982年、8歳の時に無名塾公演「マクベス」で初舞台を踏み、それ以降舞台を中心に活動している女優の仲代奈緒(なかだい なお)さん。
2011年には亡き義母、宮崎恭子さんの意志を継ぎ、「ねねぷろじぇくと」を立ち上げ、オリジナル朗読劇やライブなどを各地でおこなっています。
仲代さんは、ともにアナウンサーだった、 山川建夫さん宮崎総子さんご夫妻の間に誕生するのですが、4歳の時に俳優の仲代達矢さんと、演出家の宮崎恭子さん(総子さんの姉)ご夫妻の養女となられています。
仲代さんご夫婦には、1962年に死産されて以来、お子さんができなかったようなので、奈緒さんを養女にされたのでしょう。
ただ、奈緒さんは、総子さんの一人娘でもあるので、他にも何か事情があったのかもしれません。(総子さんご夫妻は、1978年に離婚されているので、そのこととも関係しているのかもしれません。)
8歳で舞台デビュー、歌手活動もおこなっていた仲代奈緒さんは、0歳の時から仲代さんご夫婦が主宰する俳優養成所「無名塾」の稽古場によく遊びに行っていたようです。
中学生になると歌手に憧れ、18歳の時に「きっと忘れない」で歌手デビューを果たしています。
らに、23歳の時にはNHK大河ドラマ「秀吉」にて千利休の娘・お吟役でテレビドラマデビューも果たしています。
その後は舞台へと活動の場を移し、「スクルージ」「森は生きている」「黄昏のメルヘン」など、数多くのミュージカルやストレートプレイに出演しています。
仲代奈緒さんは女優として、存在感のある演技と透明感あふれる歌声で高い評価を受けています。
1996年6月には仲代さんの養母である宮崎恭子さんが亡くなるのですが、2011年、舞台や芸術を愛した恭子さんの意志を継ぎ、「本当にいい作品を、本当に上手い役者で作りたい」と、「ねねぷろじぇくと」を設立。
「大切な人~私の家族が見た戦争~」「ロミオとシラノとジュリエット」「百年目のラブレター」など、オリジナルの朗読劇やライブなどを各地で公演されています。
恭子さんの遺作となった「大切な人」は、仲代さんにとって、とても思い入れのある作品のようで、その後も公演を重ねられ、現在も2017年8月5日(京都)、6日(大阪)と、公演されています。
仲代奈緒さんの気になるプライベートですが、未だ独身をつらぬいているようですね。
山川建夫アナウンサーの娘・仲代奈緒と宮崎総子は不仲なの?
さて、一人娘であるにもかかわらず養子に出された仲代奈緒さんは、実母である宮崎総子さんとの不仲が長年噂されてきました。
宮崎総子さんは2015年2月に亡くなっているのですが、直前は大阪で一緒に生活していたようです。
2014年末には総子さんも舞台「大切な人」に出演されるなど、とても仲が良かったご様子。
仲代さんも、私にとって、母が亡くなるというのが一番の恐怖で、いざとなったらどうなるんだろう?と思っていました。
でも、皆さんが来てくれて、母が喜んでいる気持ちが伝わってきて、ずっと母が近くにいるような気がして寂しくない。笑みがこぼれるんです。
と、語っておられますので、少なくとも亡くなる直前は、仲が悪かったということはないようですね。
離れて暮らしたにせよ血を分けた母ですから、憎しみがあるとか未だに不仲とかはないでしょう。
山川建夫アナウンサーはフジテレビを1985年に退社。現在のフジテレビとの関わりは?
山川建夫さんは1985年にフジテレビを退社後、フジテレビのアナウンサー育成にも携わっています。
そもそもフジテレビを退社した理由は、いろいろとあったようです。
ベトナム戦争反対運動を行っていたこともある山川は、1970年、当時司会アシスタントとして出演していた朝のワイドショー番組「小川宏ショー」の放送内で、他番組でベトナム視察報告をした女優の山口淑子(李香蘭、のち参議院議員。当時平日昼のワイドショー番組「3時のあなた」の週後半のメイン司会を担当)を「2週間程度の取材で、戦争の実態がわかるのか」などと批判。
それが問題となって起用からわずか10ヶ月で同番組を降板した。
また、社内では労働組合を結成して同社の経営(当時の鹿内信隆社長による準同族経営)を糾弾するなどしており、1985年には同社を退社することとなった。
自身が正しいと思ったことを主張しましたが、出る杭は打たれるで退社することになってしまったみたいです。