今回はコメディアンの橋達也(たなはし たつや)さんについてみていきましょう。
芸人・橋達也の子供は息子がいるの?
日本がまだ大日本帝国時代、中国にあった日本の管理都市で誕生した橋達也さん。
1968年、花かおるさんと「ストレートコンビ」を結成し、「だめなのねー、だめなのよー」「千葉の女が乳しぼり」のギャグで人気を博しました。
コンビ解消後はテレビや劇場の場で活躍し、1998年、東京・浅草を盛り上げようと軽演劇劇団「お笑い浅草21世紀」を立ち上げました。
そこでは座長として若手の育成に尽力し、浅草の活性化に貢献しました。
喜劇人大賞名誉功労賞を受賞し、浅草のお笑いを盛り上げて一代を築いた方ですね。
橋達也さんと花かおるさんの男2人組。
いわゆる日本のナンセンスの走りの頃のお笑いである。
「千葉の母ちゃん乳搾り」と牛の乳搾りのポーズをするなどの決め技を幾つかもっていて締めには「ダメなのね~、ダメなのよ~」。
これ2人が両手を上に上げて、2人揃って左右に一度ずつ海藻が波に揺られるようにフラリフラリと動きながら言う決めセリフである。
そんな橋達也さんの私生活が気になるところですが、結婚していることは分かっていますがお子さんはいるのでしょうか?
調べてみると息子さんが1人いらっしゃるようです。
後述するように、現在は母である光子さんの店を継いでいます。
芸人・橋達也が結婚した嫁は浅草でスナックをやってるの?
橋達也さんが結婚した奥さんは、光子さんという一般人です。
光子さんは浅草にてスナックを経営されているそうです。
1998年に旗揚げされた地元の喜劇集団・お笑い浅草21世紀の座長である、橋達也さんの奥様が店主をつとめる<スナック・グッキー>も、浅草の住人たちに愛されて、すでに7年。
夜ごと地元の歌自慢たちがつどう、シンプルながら奥深い名店だ。
橋達也さんといえば浅草の復興に貢献した方ですが、奥さんの光子さんも浅草で地域発展に貢献しているようですね。
「浅草21世紀の座長、橋達也さんの店で現在は息子さんがやっているスナック「グッキー」にて・・・」
こちらに息子さんの情報がありました。
橋達也さんのお店は、現在息子さんが経営しているようですね。
浅草の「グッキー」に行けばお会いできるようです。
他にお子さんがいるかどうかは、公にはされていないようですね。
少なくとも息子さんが1人いることがわかりました。
芸人・橋達也と小島よしおはどんな関係なの?
橋達也さんを調べていくと、お笑い芸人の小島よしおさんが浮上してきます。
「そんなの関係ねえ!」「はい、おっぱっぴー」でブレイクした芸人ですが、最近はテレビで見る機会も少なくなりましたね。
そんな小島よしおさんと、大御所芸人の橋達也さんはつながりがあるのだとか。
いま小島よしおは浅草に住んでいる。
その部屋は、もともとコメディアンの橋達也さんが住んでたところ。
橋達也さんは不動産屋に、もしこの部屋に芸人が引っ越してくる時は家賃を安くしてやってくれ、と交渉した。
そのおかげで、小島よしおは、破格の家賃で部屋を借りることができたとのこと。
なお、小島よしおの部屋には、東京ダイナマイトの松田や元さくらんぼブービーの梶も居候してたとプチ情報。
直接親交があるわけではないですが、小島よしおさんが現在住んでいる部屋は、橋達也さんが以前住んでいたところでした。
若手芸人はお金がない中、自分の夢を追って東京に上京してきます。
ですが、仕事はうまくいかないし家賃は高いし…という厳しい環境に陥る人が沢山いるのでしょう。
橋さんは、若手芸人のために粋な計らいをしてくれていたのですね。
こんな気持ちを知ったら、頑張って夢を追おう!と思っちゃいます。
もしかしたら今も、その部屋には売れない芸人さんが住んでいるかもしれませんね。
橋達夫さんは浅草のお笑いを再ブレイクに導いただけではなく、これからの若手育成に力を注いでいて、とても偉大な方なのですね!
橋達也の死因は肺炎だった?
橋達也さんは2012年1月16日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなってしまいました。
74歳というまだまだこれからというときでした・・・
後日、お別れの会を光子さんが開きました。
橋達也お別れ会が開かれました。
「浅草21世紀」を立ち上げ74歳の若さでお亡くなりになり、芸道途中と多くの弔問客が別れを惜しむその背中には生前の思いをそれぞれに強く感じます。
橋先生がいると凛した緊張が走る。
もちろん楽屋では露骨なオチ話が飛び交うし、馬券も飛び交うのだが、この緩和と緊張が瞬時に切り替わる。これが橋先生を尊敬するゆえんだ。
浅草芸人を気取った有名タレントと一線を挟んでいるその芸は、貧乏人にやさしい、粗忽な人間に寛大だった。
浅草木馬館を根岸興行さんから買い取って「笑いの殿堂」新木馬館ビルを実現して欲しかった。
偶然楽屋で二人だけになったとき、ぽろっと話しかけてくれた。
自らお笑い芸人としてステージにたつだけでなく、後輩の面倒をみることで浅草のお笑いを未来へ残そうとしていたのでしょう。