今回は元プロレスラーの星野勘太郎(ほしの かんたろう)についてみていきましょう。
目次
星野勘太郎の子供は息子がいる?
“突貫小僧”の異名で知られる星野勘太郎さんといえば、山本小鉄さんとヤマハブラザーズでタッグをくみ、プロレスの一時代を築いた方ですね。
日本のみならずアメリカで大暴れしたり、スピーディーなロープワークと技の連続で、巨体なレスラーをいとも簡単に倒していく様子が印象的でした。
また、決めゼリフでもある 「ビッシビシ行くからな!」は、プロレス流行語大賞を受賞しています。
そんな星野勘太郎さんの 私生活ですが、 まったくといっていいほど情報がありません。
プロレスラー(特にヒール役)は、イメージダウンの恐れもあって公表しない方が多いみたいですね。
息子がいるとの噂もありましたが、 確証はありませんでした。
星野勘太郎は2010年に逝去
星野勘太郎さんは2009年2月4日、都内で倒れてしまい、搬送先の病院で 脳梗塞と診断されました。
2010年11月25日に、 入院先の病院で亡くなっています。
死因は何?プロレスが原因?
脳梗塞と診断されたあとは 言語障害が残り、病院でリハビリに励んでいました。
しかし、2010年11月25日に 肺炎のために67歳でこの世を去りました。
このことは、同年11月27日に新日本プロレス関連会社の新日企画のホームページにて公表され、その後に新日本プロレス公式サイトにて正式な死去告知が行われた。
かつてのヤマハブラザーズのパートナー、 山本小鉄の逝去から3ヶ月後に後を追うような最期であった。
またファンの前に姿を見せてくれると信じていましたが、還らぬ人となってしまいました。
星野勘太郎さんの 死因は肺炎だということがわかっていますが、 プロレスが原因なのでは?という噂もあります。
勘太郎さんは’09年2月、 脳梗塞で倒れて入院、社会復帰を目指し、リハビリに励んでいたと聞く。
170cmの小柄な体ながら、イビキだけは横綱級、寝起きはよくない。
日プロ時代のことだ。定刻通りに列車は出たが、車内を見渡すとひとり足りない。
日プロ一行を仕切る篠原長昭リングアナウンサーは大慌て。
その日の試合地に着いてすぐ、前夜泊まった旅館に電話した。
体を酷使していたことは間違いないですが、 プロレスが直接原因になったわけではないでしょう。
星野勘太郎と前田日明の関係について
星野勘太郎さんは新日本プロレスにおいて、一番の喧嘩屋として 「突貫小僧」の異名で呼ばれていました。
特に、UWFの総大将・ 前田日明(まえだ あきら)さんについては、何かと目をかけていたそうです。
前田日明は星野勘太郎同様在日コリアン
星野勘太郎さんは 在日コリアンなことを売りにしており、 韓国でも試合をしていました。
韓国でも1960年代~1970年代(確実ではないが1980年代にも試合したことがあるという)に大木金太郎(キム・イル)の誘いで試合をしたことがあり、韓国では 在日コリアンということを売りにしていた。
その当時、韓国の試合スタイルは常にキャッチ・スタイル的な地味なスタイルだったので(セメントにこだわりを持ったキム・イルのポリシーからであったという)ダイナミックで瞬発力の強い勘太郎のスタイルは大変人気があって、 韓国ではプロレスを代表するアイコンとして記憶されている。
「バッチギのキム・イル(大木)」、「ヨ・コンブ(星野)のヘッド・ロック・パンチ」で知られている。
前田日明さんも在日コリアンなので、 敵対心は相当なものだったそうです。
前田日明さんは現役引退後、 自身が在日韓国人三世(韓国名:高 日明 コ イルミョン)であることを公表しています。
1983年に日本に帰化しています。
中学卒業後に自衛隊入隊かタンカーの船員になろうと考えたが、自衛隊も高等専門学校も日本国籍を有する事が応募資格であり、先述の事情からかなわなかった。
新日本デビュー当時のリングネームは 「前田明」であったが、旧UWF旗揚げ時にリングネームを本名の「日明」に改名した。
祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。
また、リングネームを本名に改名した当時の週刊プロレスの巻末クイズには、「Q.前田日明の日はどういう意味? A.日本という意味」と記載されている。
自身の出生もあり、幼少期から複雑な環境で育ったようです。
星野勘太郎は前田日明の控室に殴りこんだ?
そんな星野勘太郎さんは、試合終了後に1人で前田日明さんの控え室に殴りこみに行ったこともありました。
タッグではあったが、 前田日明vs星野勘太郎の2人に“異変”が起こったという。
星野は日本プロレスでデビューしたベテランだが、小兵ながら気性の激しさでも知られた。
「試合が始まっても2人は、プロレスとしてまったく組み合おうとしない。
パンチだけを繰り返し、 前田は顔を突き出して『殴ってみろよ』と挑発。
会場にいた僕らは、何が起こっているかわからず、シーンとしちゃいましたね。
終了後にも収まらない星野は、『 ぶっ殺してやる』と言いながら前田の控え室まで乱入していました」(ユリオカ超特Q)
まさに “激動の80年代”といえる2人の争いでした。