悪い親父だけど、どこか魅力的…。
年を取れば取るほど、人気が上昇する 俳優兼ミュージシャンの泉谷しげるさん。
破天荒ながら幸せを掴んだ彼の生活とはどんなものなのでしょうか?
目次
泉谷しげるに子供は娘がいる?
泉谷しげるさんは 結婚なさっており、娘さんがいらっしゃるようです。
奥さんは一般女性とのことで、名前や年齢、画像などの情報は特に出回っていないようです。
娘さんには3人の子供がおり、泉谷しげるさんは3人の孫たちを溺愛しているみたいですね。
以前は3世代で同居していたそうですが、孫たちにおもちゃを買い与えすぎることが問題となり、娘さん一家から「 隔離」されてしまったということがあったのだそうです。
失礼ながら イケメンとは言えない泉谷しげるさん!
その風貌+破天荒な性格で、どうみても女性に モテたとは思えません。
しかしどんな人でも結婚できるのはたった一人の相手だけ。
泉谷しげるさんは 最高のパートナーを1人ゲットしたようです!
夫婦仲も親子仲もとても良いようです。
あまりに孫を可愛がりすぎて、娘さん一家から隔離されてしまうほど溺愛してるようですね!!
泉谷しげるの妻と子供、家族エピソード
泉谷しげるさんのプライベートに関する情報は非常に限られており、特に奥様や家族については、ご本人が意図的に公表を控えている部分も多いですが、彼の家族についてもう少し詳しく掘り下げていきます。
泉谷しげるさんと奥様「フク子さん」
泉谷さんが結婚したのは22歳の時で、お相手は「フク子さん」という一般女性です。奥様についての詳細な情報はほとんど明かされていないため、その背景や人物像については謎に包まれています。
しかし、泉谷さんが過去にテレビで語った言葉や彼のユーモアの中から、一部その関係性が垣間見えます。
泉谷さんは、結婚当初、奥様に養ってもらっていた時期があったとされています。当時はまだ彼自身が芸能活動で成功する前だったため、経済的に苦しい時期もあったのかもしれません。
それでも二人は結婚を決断し、その後長い間夫婦関係を続けてきました。泉谷さんは時折、夫婦の変化について冗談めかして語ることがあります。
例えば、結婚してから妻が変わった、契約違反だ、などと茶化した発言をしていますが、これはあくまで彼の独特なユーモアです。
彼が「しらけた男たち」と対比して自身を語る場面では、「俺はしらけてない」と自信を持って言っています。この発言からは、泉谷さん自身が結婚に対して依然として前向きな姿勢を持っていることが感じ取れます。
娘さんたちと家族の関わり
泉谷さんには二人の娘さんがいらっしゃいます。長女は2013年から東京都大田区で『いずみ家』というラーメン店を夫と一緒に経営しています。
このラーメン店は地元で親しまれており、泉谷さんも広告やメニューのデザインを担当しているとされています。
もっとも、泉谷さん本人は「経営には手を出さない」と公言しており、表向きには関わらない姿勢を示していますが、看板やメニューのデザインを手掛けるなど、娘さんのビジネスをしっかりサポートしている頼もしい父親であることが伺えます。
また、泉谷さんはテレビや舞台での強気なキャラクターとは裏腹に、家族に対しては非常に温かい一面を持っているようです。
ラーメン店の手伝いをしていることからも、彼が家族を大切に思っている様子が伝わってきます。
孫娘「糖衣華(とういはな)」とその芸術的才能
泉谷さんには「糖衣華」というアーティスト名で活動しているお孫さんがいます。1999年生まれの彼女は、造形作家として非常に個性的な作品を手掛けています。
特に、着ぐるみやぬいぐるみのデザインと製作で注目を集め、2023年9月には泉谷さんとのコラボレーションによる二人展を開きました。
孫娘と泉谷さんが世代を超えて芸術作品を共に展示するというユニークな取り組みは、ファンからも大きな注目を集めました。
糖衣華さんは、その美しい容姿でも話題になっており、ギャル文化を牽引した米原康正氏からも「ギャル系カルチャー文化を伝える存在」として高く評価されています。
美貌に加え、彼女の芸術的な才能も一目置かれており、泉谷さんの遺伝子が次世代に受け継がれていることを感じさせます。
泉谷しげるの芸術的な才能
泉谷しげるさん自身も、若い頃から芸術に強い興味を持っており、音楽だけでなく美術の分野でも活躍してきました。彼は元々漫画家を志していたことがあり、その画力はプロ並みと言われています。実際、彼の作品が出版されたこともあるほどです。
さらに、1980年の石井聰亙監督の映画『狂い咲きサンダーロード』では、音楽だけでなく美術の担当も行い、泉谷さんの多才ぶりを示しています。
泉谷さんは現在も精力的にアーティストとしての活動を続けており、その芸術的センスは孫娘の糖衣華さんにも影響を与えていることは間違いありません。
二人のコラボレーション展を通じて、泉谷さんの多才な一面が改めて注目されました。
家族の絆と泉谷の現在
泉谷しげるさんは、表向きは強気で口が悪いイメージを持たれがちですが、家族との関係を見ていると、非常に家族思いの一面が見えてきます。
娘さんのラーメン店経営を陰ながらサポートし、孫娘と芸術作品を作り上げるなど、家族との絆を大切にしながらも、泉谷さんならではのやり方で支えている姿が印象的です。
また、彼は自身の体験から得たコンプレックスや弱さを、音楽や芸術活動を通じて表現してきました。幼少期にポリオを患い、足の麻痺が残っていることもありますが、それを克服し、独自のスタイルで活躍し続ける姿は、多くの人々に勇気を与えています。
泉谷しげるさんは今後も、家族との関わりを大切にしながら、多彩な才能を活かして幅広い分野で活躍していくことでしょう。
泉谷しげるの生い立ち
泉谷しげるさんの本名は「泉谷 茂」です。
生年月日は1948年5月11日。
育ったのは 東京都目黒区青葉台ですが、出身地は 青森県青森市長島出身の両親の元で生まれ、3歳から東京都目黒区東山で育ちました。
学歴は目黒区立烏森小学校卒業、目黒区立東山中学校卒業を経て、 東京都立目黒高等学校を 中退しました。
泉谷しげるさんがどこで生まれてどんなふうに芸能界を駆け上がったのか気になったので調べてみることにしました。
てっきり泉谷しげるさんは 青森県出身の方かと思いましたが…。
育ったのはほとんど東京だったんですね。
高校を中退した泉谷しげるさん、何か悪いことをしたのかと思いきや、 とんでもない事件が起きていたのです!
東京都立目黒高等学校を中退してフォークシンガーに
青森県出身の泉谷しげるさんは、高校中退後、いろいろな職についたが長続きしませんでした。
当時1962年にデビューの英国バンド、 ローリングストーンズに憧れ、ロックバンドを組んでいたということです。
しかし、1966年、 18歳の時、自宅が火事で全焼。
エレキギター、アンプなど機材を全て失いました。
そこで、やむなくアコースティックギター1本で出来る フォークシンガーになったのです。
泉谷しげるさんが高校を中退した理由はおそらくドロップアウトだと思います。
きっとこれから何をしようかと悩んでいた18歳の時、 自宅が火事で全焼してしまうのです。
おときせっかく買ったエレキギター家アンプなどを失ってしまった泉谷しげるさん。
おのせいでフォークシンガーになったなんてとっても 意外でした。
1971年 ( 23歳時) ライヴアルバム『泉谷しげる登場』でエレックレコードからデビュー。
吉田拓郎退社後の看板スターとして、エレックレコードを支える存在となります。
泉谷しげるさんの俳優として最初の出演作は1979年 向田邦子さん脚本『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』の誘拐犯役でしたが、抜擢の理由として、向田邦子さんが泉谷しげるさんを気に入ったことと、また 実際の犯人も足を引きずるように歩くことからだったそうです。
同ドラマで泉谷しげるさんは テレビ大賞及び芸術祭優秀賞を受賞。
しかしなぜ泉谷しげるさんは足が悪くなったのでしょうか。
家が全焼し心が沈んでいたはずの泉谷しげるさんでしたが、 音楽が彼を支えてくれたのか…。
何と23歳の時、大人気スターだった吉田拓郎の後釜としてエレックレコードでデビューすることになります。
人気は継続し、1979年には人気作家向田邦子さんの脚本で初の俳優デビューを果たします。
足が悪かった泉谷しげるさんの歩き方が、ちょうど犯人の姿と重なったことが抜擢の理由だったんだそう。
泉谷しげるさんは たったひとつの大きなチャンスをものにするのです。
子供の頃ポリオウイルスに感染した後遺症
ポリオウイルスに対する予防接種は1961年(昭和36年)以降行われるようになったものの、それ以前は 予防接種がなかったため、1948年(昭和23年)生まれの泉谷しげるさんはポリオウイルスに感染、 小児麻痺となり、その後遺症として足が不自由になってしまったそうです。
なお、ポリオ(急性灰白髄炎)とは「小児麻痺」とも呼ばれ四肢に麻痺を起こします。
この予防接種が開発される以前の世代に幼少期に羅患した泉谷しげるさんは、その後足を引きずるようになったということですね。
泉谷しげるさんの足が悪くなった理由は泉谷しげるさんが子供の時、ポリオウイルスに感染し、当時はまだ予防接種がなかったため、小児麻痺となり、その後遺症で足が不自由になってしまったのです。
現在では 予防接種があること=当たり前の時代になりましたが、こういうものを揃えてくれた 先代に感謝しなければなりませんね!