今回は元サッカー選手の福田正博(ふくだ まさひろ)さんについてみていきましょう。
目次
福田正博の子供は息子がいる?→娘が3人だった!
浦和レッズのFWとして活躍し、Jリーグ開幕直前の1989年~引退する2002年まで浦和レッズ(三菱自動車サッカー部)の象徴的存在でした。
サポーターからは「ミスターレッズ」「大将」と呼ばれるほどの人気選手だった福田正博さん。
引退後は、サッカーの普及活動に従事する日本サッカー協会JFAアンバサダーに就任し、サッカー解説者としてもスポーツ番組などにたびたび出演しています。
そんな福田正博さんの私生活が気になるところですが、結婚していて娘が3人誕生しています。
お子さんたちはそれぞれ、萌香(もえか)ちゃん、梨香(りんか)ちゃん、三女のみ名前が分かりませんでした。
2016年で長女が高校3年生になっているので、現在はすでに成人している年齢ですね。
家の中で男性が福田正博さんだけとなると、少し肩身が狭いかもしれませんね(笑)
福田正博が結婚した嫁(妻)はどんな人?画像はあるの?
福田正博さんの結婚した奥さんについては、公式ブログも閉鎖されている現在、詳細な情報は見当たりませんでした。
現在のご自宅については、結婚して子供が生まれてから一軒家を建てたそうです。
チームが浦和市(現・さいたま市)に拠点を置くことに決まると、私も浦和へ移りました。
当時はまだマンションが少なかったため選択肢がほとんどなかったのですが、最終的に選んだ物件は環境も間取りも良く何の不満もない部屋でした。
最初は1人暮らしでしたが、1年ほどしてから結婚し、その後長女も誕生しました。
そして5年ほど経ったころ、そのマンションが分譲になるため賃貸で借りられなくなってしまったんです。
気に入っていたので購入も検討しましたが、買うならば一軒家という考えもあり、新しく土地を探して家を建てることにしました。
ご自宅はセキュリティにこだわり、外から帰ってきたときにどこの部屋に行くのもリビングを通るように作っているそうです。
家族とのコミュニケーションを取れるように工夫したそうで、家族思いの福田正博さんらしいですね!
娘が3人いるとインタビューで答えていましたが、近年は女子サッカーも広まりつつあるので、子供とサッカーを楽しめるといいですね!
福田の場合、勝手に引退を決めたという。
引退試合の後、帰宅すると手紙が置いてありそこには「楽しませてくれてありがとう」と記されていて、それを読んだ福田はこの奥さんでよかったと思い、感謝したという。
奥さんいついては、1995年に福田正博さんがJリーグ初の日本人得点王になった際、熱烈なファンだったので号泣したというエピソードがあります。
奥さんはもともと福田正博さんのファンで、そこから出会ったのかもしれませんね。
福田正博の若い頃の画像がこちら!
福田正博さんは高校時代からイケメン選手として有名でした。
高校は大学も付属でしたがそのまま進まず、中央大学へ進学しました。
1年生の時からレギュラーを務め、関東大学サッカーリーグで新人王を獲得しています。
卒業後は日本サッカーリーグに所属の6チームからオファーが来ていましたが、その中で三菱重工業サッカー部に決めています。
この会社はプロ契約よりもアマチュア志向だったといいますが、福田さんはプロになるよりも終身雇用制度に対応しているという理由でこの会社を選んだそうです。
しかし、やはりサッカーの資質は十分に持っていたようで、1989年に入った三菱重工業サッカー部は日本サッカーリーグで2部に降格していましたが、福田さんは36得点とるという得点王に輝き、サッカー部は1年で1部に昇格しました。
その後日本代表にも選出され、第一線で活躍してきた福田正博さん。
しかし、1996年頃から怪我に悩まされるようになり、2002年のシーズンで引退となりました。
2003年6月15日に行われた引退試合には、5万人以上の観衆が集まったといいますからその人気の高さがうかがえますね。
若い頃のエピソード!「プレッシャーに負けた」ドーハでの悲劇とは?
福田正博さんは現役時代浦和レッズ一筋、引退後も解説者としての浦和レッズ、日本サッカーを見つめてきました。
しかし、「ミスターレッズ」からは想像できないほどもがき苦しんだ時代もあったようです。
「ドーハの悲劇」のときは本当に辛かった。
1996年の足首骨折、1999年のJ2降格も辛い思い出ですが、「ドーハの悲劇」は僕にとって特に大きな転機でした。
ドーハの時は何もできませんでした。
ハンス・オフト代表監督の時代に主力選手として出場してきて、ある程度監督からも信頼を得ていた中で、その期待に応えることができなかった。
自分自身に歯がゆさがありましたね。
僕に経験があまり無かったし、失敗をすること、負けることに対しての恐れがあまりにも大きすぎ勇気が無かったのだと思います。
それはプレッシャーに負けたという一言になりますけど、その重圧に対して自分がどういうふうにうまく向き合っていかなければいけないのか。
それをずっと考え続けてきました。
その後、「プレッシャーはかかるもの」と前向きにとらえるようになり、だから、受け入れるしかないことを学んだそうです。
後進に指導する際も、この経験が役立っているといいます。